土佐市の文化財(詳細)

木造愛染明王坐像

寄木造りで肉身部真紅、腰裳花文彩色を施す。
像高は約113cm、獅子冠を頂き、焔髪、三眼、両口辺に牙を表わす。 六臂の右第一手より五鈷杵、箭、蓮華を持ち、左第一手より五鈷鈴・弓・挙印をとる。面相等ややしまりが乏しく総体的に形式化が認められる。しかし六臂の整った力強い佳品で、土佐愛染明王像中の優秀作と評されている。(鎌倉時代の作)
明治初期小学校授業風景図絵馬

教場の内部が細密に描かれており、学制発布直後の様子を知るうえで、学術的にも非常に貴重である。
県立歴史民俗資料館にこの複製が展示されている。
蓮池の樟

樹高は約29mで、地上約10mまでは直立し、上部は分岐が多い。樹勢は旺盛でよく四方に伸び、樹姿は均整を保ち整っている。幹まわりは8.5mで樹令は約750年と推定されている。
木造薬師如来立像

衣文線は浅く単調に流れた感があり、一見貞観風のおもむきをもちながら、やや時代の下ることを示しているが、弘仁期の特色もある。
一木造り特有の量感をもち、当地方では最も古く最優秀作の一つで、行基の作といわれている。(平安時代後期の作)
梵鐘

鐘座はニヶ所で、乳は三段三列に並び、上帝、中帯、下帯とも無紋。池の間には左から右へ二列に古拙な書体の「井手寺」の陽鋳がある。
この寺名は、京都府綴喜郡にあった廃寺の井手寺ではないかといわれている。(平安時代前期の作)
蓮池城址

その後、藤原国信が城主となり大平氏を名乗った。
代々土佐七雄の一人として君臨し、全盛期の勢力圏は、鴨部、芳原、諸木、蒲の内、日下、越知に及び、領内の社殿の造営や修復などとともに、城主国雄の時代には文芸の高揚にも事績を残している。
群雄割拠の中で、城主国興の時代に一条氏に攻められ、およそ350余年続いた大平氏は滅んだ。
そして一条氏の番城となったが、やがて長宗我部氏に奪われ吉良親実が地主となる。
天正18(1590)年(異説あり)親実は元親に切腹を命ぜられその後は廃城となった。
城跡は城山と呼ばれ、桜の名所として親しまれている。